ぱちんこ考古学-概論

あるひとつの物から、それを独特なものとして特徴付けている(と思われる)要素を思い切って取り除いてしまうことで、対象物はそれが成った文化圏や時代や解釈などの具体的な枠組みから解き放たれて”普遍性”を得る場合がある、とはよく言われることだ。

古代において美しく造形されていただろう有翼の女神像が無数の破片の状態で出土し、部分的に復元を施したものの元のデザインが不明な頭部と両腕は欠いたままで美術展示されることで鑑賞者の想像を喚起している「サモトラケのニケ」などは、そのひとつの事例である。

この”全体像”について、どのように想像を展開するかは個々人ごとに大きく異なる。ある者は視線は天上に向けられていて両腕共に大きく広げられている様を、またある者は視線は真っ直ぐで手には何か持っているといった具合いに考えるだろう。

このような違いは鑑賞者の文化・知識レベルや美的感覚の如何によるわけだが、芸術作品どころかただの破損物でしかないと捉える者もいるだろうその一方で、古代ギリシア人が正義や平和といった概念を象徴化する文化的な素地を持っていたことを知っている者であれば、この女神像も例えば”勝利”を擬人化したものであり、これが造られた時代に起こった何か重要な戦いの勝利を自国全域に伝達するいわば”メッセンジャー”だったのではと仮定し、どちらかの手に吉報を告げるためのラッパを携えている姿を想像するかも知れない。

このように考えていくと、何かが普遍性を持つ―――とまでは言わなくとも、空間的にも時間的にも或いは嗜好の領域においてもより広範に亘り影響を及ぼすものであるためには、簡素であること、時に不完全ですらあること、説明し切らないこと、故にその物に対峙する鑑賞者に自由な想像や解釈を働かせるだけの余地を残し許容する、という条件が付くだろうか。

これは場合により哲学・思想などにも応用でき、またその真逆でいつ・いかなる時空間でも異なる文化圏であっても常に同一の印象を与えたり完全なる統一性を持った結果をもたらすものとして、”数式”のようなものでも普遍的であると言える。



今朝は早くから活動していて、管理店舗への移動の最中に私は普段扱っているパチンコスロット遊技機について、あるひとつのことを夢想した。それは、仮に新型コロナの全世界への蔓延のような厄災や世界戦争などの危機が極まって、地上全ての人類が一時的にどこかの隔離空間で数百・数千年を過ごすことになったりといった風に”現代文明の断絶”が起こった場合、深い地面の下や海の底から或いは地上に在っても厳しい風雨に晒されることで、原型を留めぬ程に朽ち果てた旧時代の遺物である遊技機を”新人類”はどのように扱うだろうか、ということだ。

最近の造りだと、パチンコでもスロットでも遊技枠・筐体のどこかが出っ張っていたり何かが付随している訳だが、これは「そういう製造上の決まりごと、或いは当時のトレンドなのかも知れない」と捉えて、例えば三共の現行枠・ネオステラのようにごくシンプルなものであっても、「上部の平べったいところに何か乗っていたのではないか」などと、想像を働かせるかも知れない。

またそれらの遺物の中からいくつかを電子機器として復元することに成功したとして、実際に遊技してみた時にどのような印象を抱くだろうかということにも思いを巡らすと、「様々な箇所が赤色に変化すると、少しだけ期待できるのかも知れない」「レバーを引け!と表示されたが、なるほど今は欠けてしまっている台中央の窪みには元々このような形のデバイスが付いていたのか」、「キュイン♪と鳴ったら図柄が揃うという関係性があるらしい」といった具合いに考察がなされる可能性もあるだろう。



新人類からどのような造りの遊技機が好まれるのかは分からないが、多くのメーカーから数多くの遊技機がリリースされている中で、数年単位で見ると内規の都合上遊技機の性能面でちょっとした違いがあったり、更に長いスパンで見れば規則改正が影響して大幅な変更が施されていることもあり、”考古学”の研究対象としては十分すぎる題材のように思う。

踏み込んで調べていくと、どうやら製造上の規格の違いには”著しく射幸心をそそるおそれ”があるか否かというのが判断基準になっているようだ、というところまで行き着く者も出て来るだろうし、これらの遊技機を設置して営業の用に供していたのはぱちんこ屋と呼ばれる施設であり風俗営業の様態は土地柄によって変わって来るという理由で営業の在り方にも違いが生じていたことなども明らかになり、「ぱちんこ考古学」という学問は「”パチンコの神様”が居た古代」「中世暗黒(裏モノ)時代」「三洋覇権の大航海時代」「ユニバーサル帝国主義時代」「メーカー・ホール団体同士が牽制し合う近代」などの分類がなされるかも知れない。



こういった愚にも付かないことをあれこれ考えている内に管理店舗がある駅前に到着し、都内ではお馴染みのそば屋にて「ネギ多め」の我儘オーダーでざる蕎麦を食べた。残ったつけ汁にポットからそば湯を注ぎワサビを追加し、少しふやけて食感が変わった麺とネギ諸共にちびちびと飲む。

時刻は5時45分で店内には私しか居ない。今朝は2台試し打ちしながら今後の運用について思案する予定で、そこまで急いで店に行く必要はないから腹具合いがこなれるまで居座らせてもらい、ガラス越しに人出もまばらな往来を眺めながらスマホにてこの文章を書いている。

いつまでも緊急事態の継続というのはさすがに無理筋のようで、ホール営業においてもGW明けからの客足は良好だ。夏場にかけてどんどん新機種が登場するが、選定する側としては当座の懐具合や先々の資産価値、常連客の嗜好など様々な要素を営業プランの盤上に乗せて判断する。遊技機の造りに対して好き嫌いはあるわけだが、私自身はここ1年間のメーカー側の開発努力を高く評価しており、特にパチンコに関しては多種多様な新機種がどんどんリリースされるようになっていることから直近20年間ほどの長期スパンで括っても百花繚乱の様相を呈していると見ている。

つまり、あとはホール側の頑張り次第ということになり、パチンコスロットという遊びが世に数ある娯楽の中で時代遅れのつまらないものとして見向きもされぬようになりやがて朽ちていくのか、それともこれから先何十年にも亘って連綿と歴史を紡いでいくのか、行き先が大きく変わって来るように思う。

不幸にもこの歴史が終わってしまえば、後世の者がパチンコスロットと向き合う際には”遥か昔に消えた産業”として冗談抜きで考古学のようなアプローチを要することにもなるだろうから、私としてはそうならぬように思案しながら今日もホールに立とうと思う。

楽太郎

Posted by 楽太郎