確固とした信条・主義を持った”反体制派”が組織化される未来図を見た

主に政治的な信条・主義に基いた行動指針を区分するものとして「右派」「左派」という呼称がある。主に政治的としたのは、それが時に社会運動や組織体の在り様、或いは哲学思想のような学術領域にも援用されるためであり、文字通り”右”(保守、体制護持など)か”左”(進歩、リベラルなど)という立ち位置だけでなく、そのスペクトル(ここでは”強度”という意味を持たせる)によって更に「原理主義的」「タカ派」「ハト派」などと細分化される場合もある。

政治に関しては日頃からよく話題になることであるため例示しないが、学術領域に関しては例えばヘーゲル哲学の解釈にあたり「老ヘーゲル派」「青年ヘーゲル派」などといった具合いに区分される。

今回はここから少し掘り下げて述べるが、後者の青年ヘーゲル派の中から、おそらく最も認知度が高いであろう人物としてかのカール・マルクスが輩出している。そのマルクスは後に、政治経済の仕組みに対して理想論的・観念的な立場でのアプローチを試みる云わば知識階級に”ありがちな”スタンスではなく、実態に則した唯物論的歴史観を視座とした思想的な展開をみせ、結果的には共産主義の立場へと移行を遂げる。

これは産業革命後の近代化の流れで生じた政治経済思想およびその体現としての資本主義へのアンチテーゼとなり、農村を中心とした共同体社会の成熟以降にコミュニティ内の人々で共有され管理されていた土地財物等すらも近代化の過程で商品化されあらゆる物事が競争に晒されるように”発展”していく中で、どうにかこうにか生活するのが精いっぱいの労働者階級が体制に対して不満を持ったり、ついに反対行動に及ぶ際の思想的・理論的な裏付けを与えた。

対する体制派は、そのような思想の侵入を恐れ排斥するような取り組みを行ったり、自国にそのような思想が蔓延らぬように国民を教化し、或いは現行の経済制度がいかに国民を富ませるかを提示することでより魅力的なものにみせ順化させようと試みた。

往々にして国家運営の中枢に居る者・体制側は体裁上は寛容に振る舞い多種多様な意見を求め異論を許すが実際には反乱分子を嫌うから、翻った反旗が強い風を孕んでより多くの者を引き付けようとする気配を見せるやその本性を露わにし、彼らが依って立つ信条・主義を危険なもの或いは道義的に悪しきものというスティグマを刻印し敵視するようになる。

この対立が明らかなものとなった際に再注目されるのが、どのような思想がその根本に宿っているか、ということである。資本主義国家の体制側に対峙する立場であれば、理解度の差はあろうがマルクス主義を標榜する場合が多いことは歴史が示しており、そういった意味で「左派は行動指針の拠りどころとなる”思想”を持っている」ということになる。その思想に照らし合わせつつ彼らは、現行制度のここが問題である、このように改めるべきであるという具合いに、実現可能性を測量することは難しくとも具体的な提示にまでは至ることができる。

このように見て行くと、では体制派・主流派には思想があるのかどうか、という疑問が逆照射的に立ち現れて来る。既に出来上がっていて、長い歴史があり、それに反対する者が居れば社会生活・経済活動等の存続が危うくなったり時にモラルさえ疑われるような立場に追い遣ることすらも可能なほどに強い権威・権力を有する体制派・主流派には、その力に見合うだけの依って立つ信条・主義があるのかどうか。

歴史を紐解けば、国家や社会等の体制の変革期にはこのような対立や思想の如何が冒頭で述べた右派・左派による論争や武力衝突のようなかたちで現出し、ここ日本でも幕末における尊皇派・攘夷派による衝突といった具合いに折に触れ表面化しているが、多くの場面で体制派は反体制派を抑えるための手段として「不敬である」「天誅を下す」といった具合いに理想論・観念論的な言い分を用いて来た。

つまり、換言すれば天皇や国家という”有難いもの”の権威だけを後ろ盾として時に武力をもって反対派を従えようとして来た訳だが、現代においては完全に理論武装したり自分たちなりの”正義”を主張する相手(正義の意味すらも相対化・多様化している)を心から納得させ従えたり、協力を得ることにはさすがに無理がある。

ただの雑談記事ながらも筆勢に任せて書き進めて来たらなんだか物騒な内容になってしまったが、私が今ここで念頭に置いているのはやはりぱちんこ業界を取り巻く事情だ。

3月30日の夜、業界の動静について情報提供してくれる方からメールが届いた。「ともえ の判決文、見ましたか?」という一文で始まりPDFファイルが添付されたものだ。内容は「令和2年(ヨ)第20135号 独占禁止法24条に基づく差止仮処分命令申立事件」の全文であり、いわゆる旧規則機の撤去問題について争われている。

本文中には、「債権者(注:株式会社カクタ・株式会社ビショップ)らの主張する損害は、中古遊技機の入替えがしにくくなることによって被る経済的な損失である一方で、債務者(注:業界団体側)らの被る損害は、債務者らの規制官庁である警察庁からの信頼の喪失や、射幸性の高い旧規則機の残存及び猶予期間終了時点に大量に発生する旧規則機の廃棄の問題という社会的、公的な損害である」という業界団体側の主張が見られ、まさにこの社会的・公的な妥当性によって業界団体側の申し合わせによる撤去推進は独禁法の適用除外であることを主張しており、これが認められた格好だ。

率直な感想としては、やはりこうなったか、という予想の通りでありこれは大多数のぱちんこ業界人が同じように予見していたことと思う。そしてまた同時に、将来において別件で”撤去問題”が発生した際に、今回の判決内容が”抑止力”として働き逸脱者が出て来ることはないのか、それともしっかりとした判例があっても敢えて違反する者が出て来るのかどうか、ということにも思いを巡らせたことと思う。

私見では、例えば次の規則改正にしても何らかの大規模で段階的な撤去の取り組みが生じた場合にしても、残念ながら後者のような状況になると思っており、ホール組合の加盟社数・店舗数は減少の一途を辿るように思う。そして仮に、全国のホール勢力図を見た際に非加盟勢が一定以上の存在感を持つに至った暁には、現行の全日遊連とは別の信条・主義で監督官庁に向き合うべく、いよいよその組織化が始まる可能性があると推察する。

日遊協にしても全日遊連にしても、ホールが主に関わる組合は「風適法の下で発展して行く」という考え方で運営されているが、別勢力はまず営業の必要性から風適法に背くことは出来ないまでも新たに依って立つ信条・主義を展開することが予想される。それは業界動静に応じて浮沈するも底流として在り続けているいわゆる”ぱちんこ業法”に踏み込んだものかも知れないし、その実現可能性を高めるための政治力を得ようと本気で取り組むものかも知れない。

ここでは何も、体制・反体制の衝突によって業界を取り巻く事情が止揚されて新たな地平が拓けるとまでは述べないが、少なくとも体制側が業界の未来のためにといって矜持に訴えかけるやり方でコロナ第一波時に休業を求めたり今回のように旧規則機の撤去を求めても上手い具合に響かなかったばかりか、一部ではあるが強い反発が訴訟事案となったという事実が残った。そして、体制派が掲げて来た”風適法の下での発展”が本当に可能なのかどうか、ただ緩やかに縮小していくだけではないのか、という疑念が大きくなったようにも思う。

現時点では、監督官庁の意向や社会の要請に沿うことで公的ケアの対象となった、また経過措置期間の延長を得たという”成果物”があるが、これは成果などではなく単に急場で与えられた非常食のようなものであり発展とは見なさない、という者も居るかも知れない。

そういう者たちがしっかりと組織化し、自分たちなりの風適法の解釈や信条・主義に基いて、例えば、古い遊技機でも繰り返し認定を得ることで継続設置し続けることが出来るような働き掛けや、平時からタイプ(デジパチにおける確率帯)やスペック(主に払出性能)或いはジャンル(デジパチ、役物抽選機などの区分)ごとに設置比率を設け遵守することを条件に比較的射幸性が高めの遊技機でも10%以内なら設置を認められるような働き掛けを行い、仮に”成果”を得たならばそれこそ”発展”とみなし賛同者が増えるかも知れない。今回、申し合わせを準拠とした撤去が一部問題化し訴訟事案となったことは、私にそのような未来図をも予見させた。

末筆ながら、本件の訴訟事案を述べるにあたりあくまでも旧規則機の撤去を争点として体制・反体制と位置付けただけであり、当該企業の平時の営業姿勢が反体制にあたるものではないと申し添えて、この雑談記事を締める。

楽太郎

Posted by 楽太郎