ぱちんこ業界の組合運営における”ロマン派”の苦戦或いは敗北

2021年3月8日

大学時代、私が在籍していた学部では、2年生になると主要な講義が都内のキャンパスに移るというカリキュラムになっていた。1年生の時はパチンコスロットに明け暮れていたせいで進級ギリギリの26単位しか取得できなかったため、2年生になってからも引き続き神奈川県内のキャンパスにも通いいくつかの講義を受けつつ乗り換えが伴う電車移動で都内に向かうという、とても多忙な毎日を過ごしていた。そうした1年間で得たものは80以上の単位と、ホールに入り浸らずに済む”健全な”生活であった。

3年生になりゼミが必修になると、そこには専攻する学問領域に大いなる”ロマン”を求めるオタク気質な先輩が1人居た。当時の私は、学究の徒となる動機としてのロマンは誰しも持っているだろうが、いざ実証研究に際してはバイアスを生む原因ともなるため、そのようなアプローチは決して好ましくないだろうと考えていた。

なので、たとえば歴史上の道標のような出来事や偉人について、まるで自分が目で見て来たかのように、友人であるかのように熱っぽく話す彼を内心では小馬鹿にし、彼が研究者としての将来を志向していることに対してもその将来は危ういだろうと思っていた。

その後私は学術書を原典で読解することに挫折し気付けばゼミには出ずにホールに通う毎日へと戻っており、またアルバイトもホールだったため、つまりは朝から晩までパチンコスロットに関わるという”不健全な”生活を送るようになっていた。ぱちんこ業界では、いわゆる”社会的不適合機”がいまだ元気に稼動しており法令順守についての考え方も”大らか”だった頃なので、店ごとに特色がある広告宣伝やイベント営業などで客を楽しませてくれた。アルバイトとして関わっていても、田舎生まれの若者にとっては毎日がお祭りの縁日のように感じられる盛況ぶりで、常連客やバイト仲間に会えない公休日は何となく寂しいというか物足りない気持になったものだ。

この通り、なんということはない私の方が嗤われるべき落第者だった訳だが、その後文字通りドロップアウトし一般企業に中途入社するものの、縁あってホール経営している不動産会社から拾われることとなり今に至る。あれから25年ほども経ってみると、彼が本懐を遂げているか、その熱意を存分に活かせるような職に就いて成功していることを願わずにはいられない。

冒頭で述べたロマンについて。

中世からの長きにわたり体系化された神学や聖書学などの権威ある学問を視座としてではなく、論理性や合理性によって世界史上の出来事やあらゆる事象を把握しようとする動きが西欧において興ったのが17~18世紀であり、これを指して啓蒙時代と呼ぶ。この論理性や合理性による物事の捉え方が正しいとする”信仰”に対して、人間であるが故の抑えられない感情や必ずしも合理的には考えられない・振る舞えない生々しさを肯定し、主に文学や絵画といった領域において勃興したのがロマン主義である。

語彙としてのロマン主義は、その源流をドイツのフリードリヒ・シュレーゲル(1772~1829)に見出すことができる。彼は、聖書・逸話集・偉人譚・古典文学などの形式ばったものとは異なり、題材も内容も自由で想像力豊かな文学表現を指してロマン主義と呼んだ。これは、かつての民衆語であったロマンス語から拝借したものである。ドイツ発祥となったこのロマン主義はその後フランスなどの西欧諸国にも伝播していき、特に小説家や画家・造形芸術家たちの精神面を色濃く表出する作品に対して「ロマン主義的な作品」という具合いに広く適用されることになった。

洋の東西を問わず多くの文化圏や社会において、特に権力者や上流階級と結び付くことにより主流になった主義主張が堅苦しく感じられるようになったり、次世代の台頭を阻害したり、外来の文化により浸食されているように感じられるようになると、それに対するカウンター的な動き(アンチ)、攻撃するような動き(ビート)、固有文化や国民性の原点を探ったり回帰したり礼賛するような動き(ルネッサンスなどを想起せよ)が半ば自然発生的に湧き上がるというのは往々にしてよくあることである。そしてこれは、なにも学問・芸術のみならず組織体の在り方や特定の産業などにおいても当て嵌まる場合が多いように思う。ぱちんこ業界においても然りである。



ぱちんこ業界におけるホール営業の風景と遊技機の造りについて、度々話題にあがるのが「客商売の原点に立ち返るべき」「パチンコ機は、画一的でビデオゲーム的なものではなく、遊技性があるもの(時に”アナログ要素が大きいもの”と同義)をより多く開発・販売すべき」といったことである。どこもかしこもいわゆる無制限・等価交換営業になりデジパチだらけになり、また気軽に遊べない運用レベルの遊技機が多くなってしまった様を見て、その弊害を指弾したり”古き良き”時代に回帰できないかと考える者が増えるのも当然だろうか。

ここに、俗な言い方をすれば、エンジョイ勢か専業(技術介入)層・期待値稼動層か、多店舗展開している法人か中小法人か、イベント主体の営業か否か、といったような事情が時に具体的な対立項としてフォーカスされて各所で議論が展開されることがある。従来とは違った新たなものとしては、遊タイム機能を搭載した遊技機の是非や運用についての話題が増えているように思う。

どちらかと言えば私自身は、勝ち負けを超えた遊技との付き合い方をしている達観した打ち手に分類されるだろうが、酷いホールでは同ジャンル機の運用に際し千円で15回程度しか回せないような釘の状態の台も頻繁に見掛けるようになって来たため、いかにエンジョイ勢であってもさすがに我慢ならず声を上げるようになっているのが実情なのだろう。

また最近では、組合組織の在り方についても、前述したような対立が見受けられるようになっている。現実的には1軒の例外もなく統一性をもって対処するのが難しい事案に際しては特にそうだと言えるが、意思決定の過程や内容に対して是認できるものか否かという議論、法令上の必要性によってではなく申し合わせで取り決められている事案の”逸脱者”に対する見解など、2020年の夏場以降サラリーマン番長、ゴッド凱旋、沖ドキという順に”撤去期限”がやって来る度に業界人のみならずユーザーも巻き込んで話題になり今現在も進行形で侃々諤々の遣り取りがなされていることは詳述するまでもない。

そしてそこには、時に「業界の未来を想うのであれば」「先人たちの努力を無駄にしないために」「利害を超えたところで一致協力すべき」などといった具合いに、業界人としての矜持や長い歴史を持つ巨大産業のまさに階(きざはし)に立っているのだという自覚を促すもの、業界のことを語る資格の有無を問うもの、またロマンに訴えかけるような類の言説も見受けられる。

営利を考えた際には正しかったり已む無き措置であっても、当座の利益を追うだけのように見える振る舞いに対して厳しい目が向けられたり「大衆娯楽を堂々と謳ってそれが通用していた遠い昔のホール営業は、今のようなものではなかったのではないか」「今変わらなければ、原点に立ち返らねば、業として破滅するのではないか」という危機感を帯びた意見が多いだろうか。

私自身は、そのような訴え掛けが琴線に触れて”効く”タイプの業界人だからよいが、皆がそうではないし、その先に業界にとって目に見えるかたちでの”果実”があるかどうかで判断する者や、あくまでも自社・自店にとってどうかという考え方に依って立つ功利的な者も居るだろう。

いずれにせよ、おそらく今最も白々しい言葉に成り下がってしまったのは、ホール関係者もメーカー・販社職域の者も多用する「業界の未来のために」「ファン人口を回復させるために」というお決まりのフレーズだろう。

コロナ禍に見舞われたせいもあるが現実には、ホールもメーカーも販社も多くの企業・店舗では自社・自店が立ち行くことだけを考えるのに精いっぱいで、ユーザーからの理解を得たり応援して貰えたりするだけの価値を提供できていないからだ。また同業同士であっても、企業経営・店舗運営の規模がまるで異なるため、組合としていかに切実な訴えを投げ掛けても逸脱者を”是正”するだけの力は無いようだ。そしてその逸脱者にはおそらく、従来水準の事業規模を維持するだけの余裕が本当に無いのだろうと推察する。

多くの業界人が本心ではそう感じている通り、いかに業界側が抗おうとしても商圏ごとの適正な店舗数や新機種販売台数・中古機流通台数・ファン人口への縮小がより一層進行することは間違いなく、コロナ禍がその生存競争を無慈悲な篩(ふるい)に掛けている。

この篩が大きく動いている内は、業界として、ホール組合・メーカー組合・販社組合として、同業に向けてもユーザーに対しても、情に訴えかけるだけの施策では一向に響かないだろうと述べて本稿を締めさせていただく。

楽太郎

Posted by 楽太郎