営業スタイルの完全な模倣は可能か

今回は、所属しているオンラインサロン「パチ盛り」への投稿用として昨夏に書いた記事(前編・後編)を紹介する。

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2020年7月23日「パチ盛り」投稿記事

『“本物“の価値と、ある上空での遭遇【前編】』

先日、当サロン運営者の林氏が、営業スタイルの模倣には限界があるという主旨の発信を行っていた。

これには業界リーディングカンパニーと目される企業の店づくりを見事なまでにそっくりそのまま再現したとしても、それは見た目が同じだけであり営業成績や遊技環境は同じようなものにはならない、という意味が込められている。

おそらくこの発信はあるスタイルのオリジンとなっている企業・店舗には特有の理念があり、それを相応の深度で理解しない限りは容易に真似したりコピーする事は出来ないのだという考え方に立脚しており、その譬え話として美術領域における原作と模写の関係について言及している。

以下で、当該発信を引用する。

素晴らしい絵画があるとします。もしもその絵画をAIが正確に模写したとして、果たしてその絵画に称賛の気持ちを持つものでしょうか?素晴らしい絵画はその根本にある作者の想いが感じられるから素晴らしいのだと思います。さて店舗視察。強豪店をそのまま真似して、うまくいくものですかね?

ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』において、時間と空間とが織り成した独特で一回性の現象が纏う雰囲気や存在感を「アウラ」と表現している。

それは仮に何かが模倣され今ここにあったとしても実はオリジナルの本質を備えてはいないのだと解釈し得るが、これは単に本物にはアウラが在るが複製には無いという事ではなく、複製が当たり前になっている・ありふれている世の中にあってはアウラという概念そのものが失われるという事、またかつて芸術作品が持つアウラは社会の伝統的な価値感によって支持されていたが、その価値観が破棄され複製技術が発展した現代(ベンヤミンの時代は20世紀であるが、ここでは敢えて現代と表現する)では大衆から支持されさえすればひとつの作品として成立し得るという、ある種哀しい現実をも示している。

大衆は往々にして、目の前にある作品が成った時代背景や作者の意図に気付かず、調べず、ただ単にそれ自体を消費するだけの存在である。

また、現実主義者の目はより一層厳しいものである。

オリジナルだろうがコピーだろうが、真作だろうが贋作だろうが、自分にとって都合が良いかどうか、利益をもたらすかどうかだけが評価の基準であり、無駄に有難がるという事をしないからである。

人生において受け得る富の範囲や総量は限られており何より時間は有限であるから、この考え方はひとつの正しさを主張し得る。

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2020年7月25日「パチ盛り」投稿記事

『“本物“の価値と、ある上空での遭遇【後編】』

【前編】の流れを受けて引き続きオリジナルと模倣について述べ、その一例として『風神雷神図屏風』という、日本絵画におけるひとつの主要テーマを挙げたい。

日本絵画における伝統的な主流派と言えば、狩野派と琳派が挙げられる。

この二派には、表現技法の違いはもとより集団形成の在り方について決定的に異なる点がある。

それは、前者が血縁や師弟関係を主軸とした正統性或いは同時代性によって成り立っている一方で、後者は旧時代の作品から受けた影響を自らの作風に落とし込み発展的に継承するという意味で私淑によって成り立っているという違いである。

古代の儒学者・孟子は、儒教を本質的に理解するためには始祖である孔子に師事する必要があると考えたものの既に故人であり、それは到底叶い様がない願いであった。

その時の心境について「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よ)しとするなり」と語りこれが私淑の語源であるとされ、現代では、直接教えを受けてはいないが著作や作品などに触れる事で傾倒して師と仰ぐ、という意味で使用されている。

琳派はまさしくこの通り、「垂らし込み」と呼ばれる技法や大胆な意匠を凝らした作風などを私淑によって継承し続けており、その代表的なものとして【後編】冒頭で紹介した空中における鬼神の遭遇をドラマチックに描いた日本絵画の主要テーマとしての『風神雷神図屏風』が挙げられる。

このオリジナルと目されているのは京都・建仁寺が蔵する17世紀の作品であり、俵屋宗達の手によるものとされる国宝である。

よるものとされる、と表現したのは、この図屏風自体には一切の銘が施されていないからである。

琳派に連なる後世の絵師の中でも特に名の有る尾形光琳と酒井抱一はそれぞれ18世紀初と19世紀初に全く同じ構図でこのテーマに挑んでおり、本稿を書き進める切っ掛けになっている「模倣から、オリジナルの想いが感じられるかどうか」という観点で敢えて言うならば、その挑戦或いは再現は、完全に失敗している。

では、その原作者・宗達の作品と前述した二者との違いがどこにあるのかというと、第一に場の拡がりの捉え方とスピード感の表現の違い、第二に状況演出の仕方としての視線の違いが挙げられる。

まず第一の違いについて、オリジナルである宗達の作品では左上から滑空して来たであろう雷神の連鼓の一部がフレームアウトしている事からその向こうにある広大な空間が想起されるが、後世の二者のそれは図屏風というフレームに収める事を意識しており見る者が抱く場のスケールには大差が生じる。

また、滑空から急停止した事により雷神の下肢は虚空に踏ん張るかたちになりその効果として黒雲が描かれているが、この描き方に関してオリジナルでは動から静へと体勢が急変した様が表現されている一方で、摸作である二者では黒雲は雷神が虚空に留まる足場としての役割を与えられているに過ぎない。

そして第二の違いである視線についてであるが、場の右側からやって来た風神はおそらくは上方から突如として飛来した雷神の姿をいち早く認識しており、次いで雷神は急降下の途中で視界に入った何かを確認するために急停止している都合上その視線は未だ下方に向けられている事から、両者の視線は交わっていない。

他方、模倣である二者のそれでは視線がぶつかる様になっており、当初からフレーム内の所定の場所に風神雷神を相対する形で配置する事を前提として描かれている事が窺える。

つまりは、宗達が描いたのは完全なるアクシデントとしての鬼神たちの遭遇であり、その場面をどうにか切り取ったような趣きが見て取れ、後世の二者が描いたのは一見すると宗達の完全な模倣ではあるが絵師の意図を読み解いたり作品が成った経緯や時代背景などを考察する事を好む鑑賞者にとっては似て非なるもの・物足りないもの、という事になる。



では仮に、宗達と全く同じ素材・描き方で経年による風合いや手触りのようなものまでも忠実に再現した精巧な複製が目の前にあった場合にはどうだろうか。

おそらく、複製である事を知らされない限りにおいて物自体は素晴らしいものとして鑑賞され、取り扱いについても緊張感を持って厳重に行われ、製作にあたってのコストや労力なども相応のものになる事が予想される。

これは図屏風に限らず、物質的な芸術作品全般の複製において同じような事になるだろう。



では、パフォーマンスやサービス、空間等による表現の際にはどうだろうか。

結論としては、人間をはじめとした生物或いは自然現象が介在するという条件が伴えば仮にAIなどのアシストを受けたとしても完全な再現は不可能であり、どれだけ同質のように見えてもオリジナルの本質を具備したり表現し切れるようなものではなく、あくまでも「~のようなもの」「~版」という類型として括られるだけであろう。

そのことについて鑑賞者・観察者によっては、正確に模倣・複製・再現されてはいるが想いまでは伝わってこない、称賛の気持ちを抱く事までは無い、などといった所感を述べる場合もあるかも知れない。

本稿冒頭の林氏の発信はパチンコスロット店の運営における営業スタイルや遊技空間の模倣について述べているが、経営上の資本力や日々の店舗運営上の還元度、またスタッフ教育の度合いや習熟度が同程度であれば完全な模倣が成り立つ場合もあるのか、或いは似て非なるものであっても業種的な側面としてユーザーから支持される還元度さえ維持していればオリジナルを超える評価を得るのか、更には遊技空間や還元度で劣ったとしても人の魅力によってオリジナルを凌駕する事が出来るのか、などといった具合いに思考の幅を広げて行く事で様々な観察が成り立つ妙味があると述べて本稿を了とする。

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【参考】

・多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫

東京国立博物館

京都国立博物館

楽太郎

Posted by 楽太郎