羅紗の宇宙に惑星を走らせて

2020年11月20日

学生から若手社員の頃にかけては一人でも仲間内でも深夜のビリヤード場で過ごす機会が多かった。今回はその時代のちょっとした昔話であり、要は撞球回顧録とでも呼ぶべき雑談である。

横浜、川崎、日吉、渋谷、新宿、池袋、王子、鶯谷など自身の生活圏や友人が住む街の駅前には行き付けの店舗があり、あるところはジュークボックスやちょっとしたBARなどを備えた小洒落た雰囲気で、またあるところは飾り気が一切ない殺風景なビルの一室に4台ほどのテーブルがドンと置いてあり部屋の隅っこにはゲームセンターや喫茶店で見掛けるような古い麻雀のゲーム機が退屈しのぎ用に置いてあったりといった具合いにそれぞれ特色がある店舗が各地に存在していたという意味では、昔のパチンコスロット店が店構えも設置機種も営業スタイルも一様ではなく”開拓”が楽しかった時代と状況としては似ている。

ビリヤード業界の事情については門外漢なので憶測の域を出ないが、我々ぱちんこ業界も資料として利用する機会が多い『レジャー白書』の2018年版を参照すれば年に1回以上プレーに興じている参加人口は270万人規模であり、私が入り浸るのをやめた2002年前後の頃の参加人口が700万人弱だったことを考えると業態としては衰退しているようである。

これにはサービスや商品全般の世の中的な”低価格化”の流れが関係しているのと、大型チェーンが牽引してビリヤードだけでなくダーツなども含めた様々なゲームが同じ場所でプレーできる大型のタイムアミューズメント施設が駅前に陣取るようになったこと、またリアル店舗で体験型で、といったスタイルではなくスマホ等に代表される手軽な遊び・暇潰しの仕方がメジャーになっていったことも影響していると推察し得る。

ちなみに最盛期にあたるのは1987年から1988年にかけてのようで、これには1986年12月に封切りとなった『ハスラー2』が関係しているだろうか。きっと当時は全国各地のビリヤード場にトム・クルーズ気取りの粋なハスラーが沢山居てバブル時代に向かうイケイケな社会風潮における夜の遊びのひとつとして支持されていたのかも知れない。実際、同じく映画では『私をスキーに連れてって』の公開が1987年でそれからスキーブームが起こり高原エリアではリゾートマンションが林立し投資物件としても重宝されたらしいので、お財布の中にお金は十分に入っている訳だから遊びの選択肢はいくらあっても困らなかった時代と言えるだろうか。

そして我々ぱちんこ業界の事情については、いわゆる”社会的不適合機”が撤去され、海物語や4号機の爆裂機時代が来て、”等価交換”営業スタイルが席巻し”旧MAXタイプ機時代”に入り、その後は若手読者の方でもご存知の通り射幸性の抑制と依存問題対策を旗印とした規則改正も絡んだことでホールの主役を張っていたタイプ・スペック機が段階的に撤去されて行くこととなったが、気付いたら適当な規模のホールならば大体は同じような空間になっていて前述したような”開拓”を楽しむようなユーザーも減ってしまったように思う。その間の業界の衰退やユーザー動向などは、敢えて語るまでもないだろう。

冒頭で断りを入れた通り今回はビリヤード場にまつわる昔話で、業界の時期で言えばギンパラやそれ打て浜ちゃん2などがいまだ元気に稼動していた2000年の頃のことである。私は当時、山手線の円周の左上の方、つまり城北エリアにある小ぢんまりとした賃貸マンションに住んでいた。月額家賃は52,000円だっただろうか。

この当時、日常的につるんでいた連中は5名ほど居て、その中の2人は相当にヘビーなスロットユーザーだったこともあり遊技した後に飲みに行って興が乗ったらそのままビリヤード場へと雪崩込んで行くというパターンが多かった。ここではMとKとでもしておく。Mは青山学院大学を中退して”スロプー”になっており、Kはどこにでも居る「俺はまだ本気出していないだけ」といった風な、デザインでも音楽でも創造性が求められる領域のことに関してはちょっとうるさいタイプの男である。

雪がうっすらと積もった1~2月頃だったかと記憶しているが、各々の退勤後の18時くらいに上野の丸井の観葉植物売り場の前で待ち合わせて、パサージュⅡだったかオリエンタルだったかで一緒にスロットを打って、勝った者の金で同じ通りにある「えんぱち」という安い居酒屋で飲んだ。これは定番のパターンであった。

その後、私も両名も自宅がある城北エリアへと移動して、これまた定番の流れでよく行っていた王子駅前のアメリカンな風情のビリヤード場で朝まで遊んだ。

プレー自体は全員上手くもなく、かといって下手でもない、普通のオニーチャン方が酒を飲みながらダラダラやっているようなものであって特筆すべきものはない。いつも大体は4時半くらいまで球を撞いて転がして、始発に乗って帰ったら泥のように眠る、こんな感じである。

だが、その日は、いつもとは1つだけ異なったことがあった。それは、Mが”打ち子”を辞めて実家がある群馬県に戻るか否か迷っていたことだった。

Mは上野・御徒町エリアのガード下の今ではもう廃業した某店のマネジャーの打ち子をやっていた。契約(実際には口約束とのことであった)の内容としては、設定6の台を1台指定されて、それを”適当な時間に来店して適当に出して適当な時間に退店する”というもので、要は店のスタッフからも客からもバレないように抜いてそれをマネジャーと半々で分ける、というものだった。

裏モノ機など一部の機種はどうしても投資金額が多くなってしまう場合もあったため、そういう展開になってマイナスになった際には”負け分の半分保証”というオプションもあったようで、本人曰く「取り分50%というのはこの稼業では悪い方だけど、朝一で確保するとか終日打ち倒すとか、周囲からバレてトラブルになる可能性が高いような立ち回りはしなくて済むし、仮に他の客から取られていた場合はそのまま帰るか適当な台を回して適当に負けてカモフラージュするだけだから、気持ち的には楽だった」などと話していた。依頼を受けての稼動は週に1~2日ほどで月間で20~30万円ほどの稼ぎになり、これに加えて松戸、上野、御徒町、神田、池袋、王子エリアでスロット2割パチンコ8割くらいの割合で自力で立ち回りこちらは月間で約30~50万円ほどで、つまりは合わせると月間で50~80万円ほどの純利益とのことだった。

一時期だがMは某巨大ターミナル駅エリアの店長案件(現在も営業中であるため伏せる)で投資金額ノーリスクでの打ち子もやっていた。これはどういうことかというと、日本レジャーカード社製の一般カードで客が忘れて行った高額のものを店長から郵送で受け取り、その残高で立ち回って(同社製の一般カードは玉・メダル貸出なら無期限での使用が可能※現金精算は不可)プラスになった際にはいくらかを謝礼として渡すという契約だった。細かい内容は失念したが、こういう案件には”前任者”が居て、その者が稼業から足を洗う際に紹介で入る以外の道は狭く、Mも店長と繋がりがあった前任者と知己であったため引き継いだという格好であった。

この打ち子システムについて、店長側には拾得カード分の残高が後日の売上に加算されると共にうまく立ち回ってくれれば自身に”お小遣い”が入り、M側には現金不要で打てるという”メリット”があり、実際彼はこの案件も併用して稼動していた時期には月間で100万円以上の純利益を出して貯金ペースがアップしたようだが、その反面体力と睡眠が削られていつ会ってもダルそうに、眠そうにしていた。

このMだが、実家に戻るかどうか、いや、本来であれば戻らざるを得ない状況になり、真夜中の王子でのビリヤードの最中にずっと悩んでいた。母親が死んだのだ。

実家には歳の行った父親が一人残され、部位は失念したが過去に癌をやっており生活にも支障が出るような状況であった。その父親とは大学進学後は一切顔をあわせず電話でも口をきいていないとのことだったが、この父親が居る実家に戻るのかどうか。地元には一応何名かの旧友が居たようだが、誰ともまともに連絡をとっていないようだった。

このような状況でMが酔っぱらってマルボロメンソールライトを早いペースで吸いながらミスショットを繰り返す中で話したのは「本来なら親しいはずの人ほど、会いたくない」「駄目人間の生活をしている様子を、見られたくない、知られたくない、今までどうやって過ごしていたのか説明したくない」「自分は雇われて働く生き方なんかとてもじゃないができない、でも自力で何かできるかというと自信が無い」「田舎には、何にも無い」「田舎に帰ったら、自分は”破滅”する、怖い」といったようなことだった。

Mの言葉は、私の中でずっと残り続けた。何故か、それは、その時は彼に対して「父親のために実家に帰るべき」「地元でもきっと上手く行く、大丈夫だ」などと無責任にも話したが、当の私自身がその当時家族や旧友と疎遠でありその理由がまさに彼が球を撞きながら話したように本来親しいはずの人ほど会いたくない、駄目な体たらくの自分を見られたくない、というものだったからだ。

それから何ヶ月か経って、Mはパチンコスロット稼動に明け暮れた東京から”何も無い”北関東の田舎町へと帰って行った。不思議なもので、数年来つるんでいた仲だったが、その後は一度も連絡をとっていない。

私は幸いにも大好きだったパチンコスロットを仕事にすることができて、どうにかこうにか社内でもポジションを得ることができたが、今ではまともに雪も降らなくなった冬の訪れを間近にしてただ彼が健康で平穏な生活を送っていることを祈るばかりである。

楽太郎

Posted by 楽太郎