世相は静かに眺め入るべきもの

不安と共に過ごした5月が過ぎ、6月も中旬となり、ホール入場口付近のエアコンの風がひんやりと心地良く感じられる頃となれば、私にとっては管理店舗近くのオフィス街の路地にある小洒落たレストランの白いテーブルクロスが敷かれたテラス席で出される香ばしく焼き上がったパンと仔牛のステーキ、そしてさっぱりとした苦みのハートランドビールが恋しくなる時期である。

コロナの影響により、店頭にちょっとしたスペースがある街の飲食店や居酒屋等は、換気効率を上げ稼動席数をより多くする目的で屋外にテーブル席を設ける場面もちらほらと見受けられるようになった。

夜時間帯に管理店舗に顔を出すついでにぶらぶらと街中を歩いていて、屋外席で仲間内で楽し気に飲食に興じている会社員の姿を目にするにつけ、この方々はパチンコスロットは打つのだろうか、時間とお財布に余裕が出来たら、自店でなくても構わないのでまた贔屓のホールに遊びに行って頂きたい、そのように思う日々を過ごしている。

近隣他店舗の視察中にも、如何にすればより多くの属性・年齢層・頭数のユーザーを商圏内に留め置けるか、この街に行けば毎日どこかしらのお店が遊ばせてくれるだろうという期待感や遊技習慣を持って頂けるか、そういった事を思案している。

さて、冒頭の一節は、私が深く敬愛している文人の一人、北原白秋 の『桐の花とカステラ』のオマージュである。

白秋は1885年(明治18年)に生まれ、たびたびコレラが大流行し年間で数万人から十万人規模の死者数になる事もあった19世紀末に幼少期を過ごしている。

防疫学の権威・北里柴三郎は著書『日本におけるコレラ』において、これは舶来病であると断言しており、1885年の大流行時は清国から長崎経由で国内に蔓延したと具体的に記している。

江戸時代は罹ると忽ち死に至る得体の知れない疫病として恐れられ、その蔓延を防ぐために戸口に厄除けの札を貼るなどの対処法しか無かったとされ、明治時代に入っても有効とされる消毒液の噴霧を行ったりと当時考え得るあらゆる策を講じて事にあたった訳であるが、国内でようやくコレラが終息するのは1920年代を待たなければならなかった。

つまり、時代や医療技術、感染拡大の規模は違えど、世相としては今般の新型コロナ禍と近いものがある、という事になるだろう。

このような時代に、白秋はどのような毎日を過ごしていただろうか。

白秋が早稲田大学に入学した20歳の時は1904年(明治37年)であり、それは折しも東方への野心を露わにした軍事大国ロシアを迎撃するための日露戦争の年にあたる。

30代の頃には第一次世界大戦と世界恐慌を経験し関東大震災にも罹災。

40~50代では中国情勢が急速に悪化し国内でも5.15事件や2.26事件により軍部台頭の情勢となりついに1937年(昭和12年)盧溝橋事件により日中戦争が勃発。

ちょうどこの頃には、糖尿病と腎臓病の合併症による眼窩底出血により失明している。

そして1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦により戦局が変転して行く頃、11月2日に阿佐ヶ谷の自宅にて57歳で世を去った。

そう考えると今は戦争が無いだけ随分とマシなのだが、連日執拗に領海侵犯を繰り返す中国、何かにつけて面倒な隣国というイメージがすっかり定着してしまった韓国、そして不穏な動きを見せている北朝鮮、世界の警察たる事をやめ他国との関わり方を見直し国内に目を向けるも直近では人種対立に揺れる名ばかりの ” 自由の国 ” アメリカ、これらの国々から海を介して挟まれる格好の今の日本は平穏無事なのかと聞かれると、必ずしもそうとは言えないような状況にあるだろうか。

白秋の歌集のタイトルにもなっている『白南風』が吹く頃とは、すなわち梅雨明けを指す。

病床にあって、苦しい発作の合間に窓から入る新鮮な空気を感じながら、新しい出発だ、窓をもう少し開けて欲しい、素晴らしいと最期に口にして旅立ったとされる彼の事を想いつつ、国内でコロナの第2波が起こらぬように、クラスターを発生させる事なく全国のホールが夏を迎える事が出来るようにと祈る毎日である。

[参考]

「白秋記念館」

・『北里大学一般教育紀要』北里柴三郎 「日本におけるコレラ」 林 志津江 訳 北里大学一般教育部 解題

「国立感染症研究所」

・『日本人、最期のことば』西村 眞著 飛鳥新社

楽太郎

Posted by 楽太郎